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政策委員会 第3回


講演 保守の論理
講師 町村信孝 会長

平成21年11月19日
下村博文政策委員長
 今まで2回は、基本理念についての議員同士のフリートーキングをさせていただきましたが、今までの議論の中で、保守というのも人によっていろいろと思いなり、あるいは解釈なり、考え方が異なっている部分もあるし、また前回は、そもそも保守といっても、自民党支持者の中にも、かえって復古主義的な、あるいは戦前回帰的なマイナスイメージ的に取る人もいるということの中で、これから未来志向で、多くの国民の皆さま方が新しい旗の下で、民主党の社会主義政策の対極として、受け皿としてを考えると、言葉としてもいろいろと考えたほうがいいのではないかということがありました。まず、保守とは何なのかということについてきちっと定義する中で、改めて旗としてはどういう言葉がいいかということはこれから議論するにしても、3回目からはいろいろな方々にお話をお聞かせ願いながら、さらに議論を深めていこうということになりました。
 初回は、わが清和研会長、町村先生が、お手元に配布をしていただきましたが『保守の論理―凛として美しい日本をつくる―』という本を書いておられますし、清和研の会長として、まず町村会長からお話をしていただいて、さらにこれから次に向けて議論を深めていこうということで、前回決めさせていただきました。それでは会長、どうぞよろしくお願いいたします。

町村信孝会長
 せっかくの機会ですからちょっとだけお話をさせていただき、むしろ、先生方の活発なご議論の一定の素材になればいいかなと思っております。

  1. お手元に『保守の論理』という本を配らせていただきました。この本は私が当選して20年たったときに、何かこれまでの自分の考えなりを少しくまとめてみようかなと思って書き始めたんです。そうしたら意外と時間がかかったのと、ちょうど外務大臣になってしまいまして、あまり具体的なことは書けないなというので、具体論をずいぶん落としたりして、また半分以上書き改めたりしたものですから、実際に出たのは当選後22年ぐらいたったときになってしまったわけであります。この『保守の論理』、副題として「凛として美しい日本をつくる」、実はこの1年後に安倍先生(安倍晋三元総理)が『美しい日本』という本を出されまして、そちらが爆発的に売れまして、私の本はそういう意味では相当の影響を受けてしまいました。安倍先生の1年前にこの「美しい日本」という言葉を私は使ったわけでございます。
     ちょうど2005年が戦後60年ということでもあり、自民党結党50年ということでもあったんですね。そんなこともあって、少しく保守ということをまとめて考えてみたいと思ったのが一つの大きなきっかけであります。そういう意味で、何らかのご参考にということでお配りをさせていただきました。
     本の書き出しが18ページに載っておりまして、「われわれは終わりの無いリレーの第何番目かの走者である」と、こういう意識で私は生きているし、生きてきたつもりである、政治家としてもそう考えているということを述べております。要するに現在が突然生まれたものではなくて、過去があるから私がある、親がいるから私がいる、祖父がいる、祖母もいるから私がある。そして、これは当然、われわれの子どもや孫、まだ残念ながら孫は生まれておりませんけれども、孫もいずれできたらいいなと思いますが、そういったものとして、日本の社会、国家というものを受け継いでいく。これは日本人として、あるいは一人の人間としての責任であろうし、またそうあってほしいなという思いで、過去からずっと続いてきたし、将来にも続いていく、その何番目かのリレーの走者の一人なんだという意識がまず出発点にありますよということを、ここに書いているわけでございます。
     あとでまたちょっと申し上げますけれども、50ページあたりに、「国家の役割を明確に」、「小さくて賢い政府を」つくろうということであります。これは何を言いたいかというと、「政府への過剰な依存が『凛とした』日本人の姿勢を失わせてきた」と私は考えています。政府に依存するとは、官僚機構に依存することです。そして、税金に依存することでもありますと、こういう考え方であります。

  2. これは私の学生時代の経験なんですけれども、私はたまたま1年間、アメリカに留学をして、帰るとき、仲間のアメリカ人の学生たちと「君は日本に帰って何になるんだ」という話をしたときに、私はそのときまだ漠然としてはおりましたけれども「国家公務員になる」と。外国に暮らすと妙に国家というものを意識するものですから、それで国家公務員になると言ったんです。そうしたら、アメリカの友人たちから「おまえは変な男だ。情けないやつだ」と言われました。「なんと情けない。公務員というのは税金を食べて、要するにタックス・イーターではないか」と言うんです。「どうしてタックス・ペイヤーになろうとしないのか。アメリカではタックス・ペイヤーになるということは、例えば会社を起こして企業経営をやったり、あるいは弁護士になったり医者になったり、そういう自ら稼いで、そして自ら税金を払う。それを公務員になろうなんていうのは、なんと志の低いやつであるか」と言って激しく責めたてられまして、「いやいや、別にそういう意味じゃないんだけど、日本はまだ国がやることがいっぱいあるんだ」、そんな話をしながら、公務員の位置づけが日本とアメリカと違っており、実際そういう意識で大部分のアメリカ人が生きているということをそのとき発見し、それはそのとおりだなと思った記憶が今でもまざまざと残っております。
     ですから、彼らは本質的に大きな政府ではなくて、小さな政府志向である。もちろんいろんな考えはアメリカ人にもありますけれども、そういう人たちが非常に多い。では、現実はどうかというと、アメリカは公務員の数はけっこう多いんです。人口対比でいくと、日本よりも実はずっと多いんです。言ってることと現実はずいぶん違うなと思うことはしばしばあります。そういう意味で、私の原体験の一つになっているということがあります。

  3. もう一つ私の原体験ですが、誠に個人的な話をしてすみませんけれども、私は政治家になりたいと、今度はアメリカに勤務で行ったときにそう思ったんです。そしてその話を私の父親に、当時、まだ参議院議員でしたが、まず話をしたところ、「君は官僚としてどうだね。偉くなれそうもないかね」と言うんです。「いや、入って13年たって、局長ぐらいにはなれるかなぁ」と適当なことを父に言ったんです。そしたら、「局長ならいいじゃないか。なんで君は政治家に身を落とすのかね」と(笑)、こう言われました。父は、戦前は内務省の役人で、警視総監という内務省のトップまでのぼり詰めた。昭和20年は警視総監で迎えて、例の天皇陛下の玉音版を軍隊に取られないように守るという、死ぬ思いでの仕事をしていた。そしてその後、公職追放になって、追放解除後、政治家になった。父の思いは、「戦後の政治家としての仕事は第二の人生で、自分の本当の人生は内務省の役人時代であれが一番よかった。しかるになんで政治家になろうとするんだ」ということでした。1年間、父に反対をされましたけれども、それでも私は政治家になろうとした。そのときに「政治家に身を落とす」と言われたことが今でも私の頭の中には残っておりまして、戦前の誇り高き公務員というのは、自分たちが日本を支えているんだという、良いも悪いも含めて大変な国家意識、エリート意識といいましょうか、それを持っていたということなんです。
     私が言いたいことは、私はたまたま公務員と政治家しかやっていない、自分で商売をしたことがないものですから、公のために働く、あるいは国家のために働く、国民のために働くということしか自分の頭にはないということでありました。そういう意味で、自分の政治家の原点がそういうところにあると考えています。

  4. さて、今日は肝心の話をしなければいけませんが、「保守主義」とは何ぞやということを自分なりに頭の整理をし……もちろんこれは全部自分の言葉ではなくて、いろんな学者の方々の本を読んだり、議論をした結果をここにまとめてあります。
     ここに「近代政治理念・思想(主義)」と書いてありますが、この「主義」と、2番目に書いてある「政治制度」──制度というのはデモクラシーとか、クラシーと言うんですけれども──は分けて考えないといけないよということがまず一つあろうかと思います。真正自由主義(conservatism. 保守主義)、これが一つの柱としてあります。その対極にあるのが「全体主義」、(社会主義、共産主義等)。たぶんその中間にあるのは「左翼的自由主義」。「左翼」という言葉も今やだんだん死語になっているのかもしれませんけれども、(liberalism) という、こうやってabcと3段階に分けて書いてあります。
     これで分けていくと、アメリカの共和党、イギリスの保守党は間違いなく保守主義の政党。日本の自民党はどこにあるかというと、かぎ括弧でくくってありますけれども、保守党であると同時に、かなり左翼的自由主義政党の部分が政策面ではある。だから昔、日本社会党があったころ、自民党というのは現実的社民主義者の集まりである。社会党というのは、観念的、空想的社会民主主義者、あるいは社会主義者の集まりであると、そういうレッテルを貼る人がいて、考えてみるとわれわれの政策というのは確かにそういうとこがずいぶんあるなというふうにも思いました。そして今の民主党はどこにいるかというと、鳩山さんは自分は保守主義者だみたいなことを言うけれども、明らかにそれは違っていて、彼らは相当左翼的自由主義者及び社会主義者の集まりではないかなと思う。こんな意味で民主党をそこの括弧にくくってあるわけであります。共産党やら旧社会党、あるいは現在の社民党は、間違いなく社会主義者たちの集まりだろうということであります。
     いい悪いは別にして、自由民主党というのは保守の精神を持ちつつ、現実の政策は相当社会民主主義的政策をやってきたということだと思います。そして保守主義、あるいは真正自由主義というのはどういうことを基本にして成り立っているかというと、下に書いてありますが、自由競争とか、あるいは個人の自由(自己責任)、あるいは小さい政府というものがセットで、保守主義というものを形づくっているんだと思っております。
     そして国家というものは、歴史的に長い間かかってつくりあげてきたものだから、それを大事にする。しかし、だからといって国家権力を制限をすることによって、個人の自由というものは尊重していかなければいけないというのが保守主義の考え方だろう。その対極にある全体主義というのは、統制とか計画とか、一部のトップリーダーだけが物事を判断をすればいい、結果として大きな政府になるという、やや極端に二分類すればそれだけの違いがあるのではないのかなと思っております。このへんはかなり学者的意見も含まれておりますけれども、私なりに理解するとそういうことです。
     ただ、さっき下村委員長も言ったけれども、保守主義というと非常に保守的という言葉とごっちゃにされて使うことがありますが、では、保守主義者は保守的であるかというと、決してそんなことはない。サッチャーさんの大改革とか、レーガンさんの大改革。戦後のイギリスの労働党政権の下でいろんなものができあがっていった、それを思い切って変えたのは、まさに保守主義者であるサッチャーさんだから、あれだけの改革ができた。だから、保守主義であるということと保守的であるということは意味がまったく異なるということは、やはり意識しておかなければいけないと思います。

  5. それから、デモクラシー、民主主義は当たり前だとわれわれは思っております。実際、民主主義、デモクラシー、demos というのは大衆、民衆という意味で、cracy というのは制度という意味ですから、民衆参加を主体とする政治制度である。これがデモクラシーだと、よく言われていることですが、これの対極としてあるのは、例えばaristocracy という貴族による政治制度。
     ただ、例えば自由主義デモクラシーは民族社会主義に転化した。これは第一次大戦後、ワイマール憲法の下で、自由主義デモクラシーというものがずっと広がっていって、しかし、その政権が非常に弱く、かつ第一次大戦によるドイツの経済の疲弊を背景にして、選挙によって選ばれてきたナチスというものが、法律をどんどん通し、最終的には法律で諸々のことはすべてナチ党が決めることにしようという法律を通して、議会制民主主義はなくなって、ナチの独裁というものにつながっていった。きわめて合法的、民主主義的に独裁政治ができていった。逆に言うと、民主主義というのは、もしかすると非常に危険な少数者による独裁につながってしまう恐れのある制度だということをわきまえておかないと。民主主義というのは、絶対的にいいとは言えない。セカンドベストでしかない。しかも、常に一番いい結果をもたらす制度であるとも言えない。ものすごく優れたアリストテレスかプラトンみたいな人がバッと物事を決めたほうがもしかしたら一番いい決定が行える可能性はあるんですが、しかし、大間違えをする可能性もあるので、ものすごくいいこともやれないけれども、ものすごく悪いこともしない民主主義というのが結果としていいのではないかということであります。われわれ自由民主党、自由主義と民主主義と言ってしまうけれども、民主主義という言い方をすることは、ここは十分気をつけなければいけないと思っております。

  6. 今日はご参考までに簡単な資料を配布しておりますが、保守主義の父と言われておりますエドマンド・バークという人がいますが、この人は国会議員で、大変な文筆家であり、かつ大変な名演説家であり、かつ哲学者であるという、素晴らしい人が、1700年代の終わりのころ活躍していました。
     しかし、ここで当時と今とではあまりにも違いがあるから、全部が全部現実に今、適用できることではありませんが、1ページ目の下のほうに書いてある、何が大事かというと、自然的に発展し成長してきた不可視的な、目に見えない法律、コモン・ローとか道徳とか、あるいは階級国家というものが非常に重要であると。ご承知のようにイギリスというのは憲法がないわけであります。成文法としての憲法がない。それは何によって置き換えられるかというと、コモン・ロー。普通の言葉で、たぶん常識ということではないかと思うんです。常識と言うとちょっとぼやっとしすぎているかもしれませんけれども、成文法なき憲法がイギリスのコモン・ローであるという意味で、例えばわかりやすい例を言いますと、法律だと法律を変えれば変わってしまうわけです。
     実は国旗・国歌法というのが出たとき、私は反対したんです。なぜかというと、「日の丸」「君が代」が国旗・国歌であることは間違いはないけれども、法律でそれを決めると、今度、例えば民主党政権が出てきて、法律を変えれば、国旗・国歌は「日の丸」や「君が代」でなくすことができるわけですよね。だから、こんなものは法律によって決めるのではなくて、コモン・ロー、慣習法として、国旗は「日の丸」であり、国歌は「君が代」であるということでいいじゃないか、あえて法律をつくると逆のことが起きかねませんよと言って、私は自民党総務会で、反対はしなかったけれども、相当強い疑義を申し上げたことがあります。しかし、そうはいっても法律でやろうよという話になって、結局、国旗・国歌法になったわけでありますけれども、実は何でも法律にすればそれで世の中が治まるというものでもないというのが、このコモン・ローの優れたところかなと思います。
     そして2ページ目にいきますと、何が重要かということで言うと、一番上のほうに出ておりますけれども、個人の自由とか名誉とか私有財産とか、あるいは世代を超えて生命を得ている慣習・習俗、道徳の宿る〃中間組織〃という、この中間組織という言葉が、要するに国家と個人をつなぐものということなんだろうと思いますが、それは家族であったり、コミュニティムラであったり、宗教教会コミュニティ、こういったものが実は非常に重要なんだということであります。このへんは1回目、2回目のご議論の中でも、たぶんこういうご意見がたくさん出されたと思います。地域社会の重要性とか、家族の重要性というようなことをこの政策委員会の場でも多くの方が強調されていたのは、エドマンド・バークが言っていたことときわめて同じ発想、考え方なのではないかと思います。
     2ページ目の真ん中あたりに、面白いなと思うのは、「バーク哲学の主要概念」として、偏見というのが大切だと言うんですね。このへんになると説明がなかなか難しいところがありますが、むしろ下のほうの、バークが断固として拒絶した概念は、平等人権国民主権、あるいは進歩革新民主主義人間の意思人間の無謬性(誤りのないこと)。これを今、日本の社会で持ち出すと、平等がダメだ、人権もダメだ、国民主権もダメだ、進歩も革新もダメだと言うと、これって何を言ってるのということになってしまうんですね。ただ、彼は現実政治家であったと同時に哲学者でありますから、たぶん理論を突き詰めていくとこういう考え方になるということで、結果としての進歩やら何やらを別に彼は否定をしているわけではないんだろう。しかし、それを追い求めるということは保守主義に反する。
     あるいは「平等」というのも、最近の言葉で言えば機会の平等か結果の平等かという議論もあろうかと思いますけれども、彼が言っているのはたぶん結果の平等を求めることには反対であると。要するに、バークという人は、フランス革命というものを強烈に批判したわけです。フランス革命は必ず人心の荒廃やら、あるいは社会の大混乱を招くであろうということで、今、そういう革命を起こしているフランスを断固として攻め滅ぼさなければいけないと議会の中で主張した人なんです。ですから、自由、平等、博愛といったようなものを掲げたフランス革命、実際、フランス革命で起きたことは、まことに血なまぐさいことがいろいろ行われたし、その後の国家の混乱などを見ると、バークがなぜフランス革命に反対したのか、ある程度はわかる気がします。
     こういう考え方を1700年代、今から300年ぐらい前に表し、それがいろんな形でいろんな国に流れていったというのが、次のページ以下に書いてありますから、これについては私はこれ以上、長々と説明する必要はないだろうと思います。
     ただ、日本にどういう影響を与えたかというと、実はほとんど日本には影響を与えていないということが、学者たちの定説のようでございます。それはなぜかというと、ある意味では江戸時代というのは、長勢(甚遠)先生は江戸時代が一番いいというご説をいつか、半ば冗談、いや、とても本気に言っておられた。ある日本の学者と話しておりましたら、保守の最も典型的な姿は江戸時代であると言っていました。
     要するに、外界との接触を断ち、自給自足的にすべて国内で全部やれた。そして一定の生活様式を守りつつ、それなりの道徳もみんな持ちながらやっていた。ところが、明治維新が起きて、これは英語で言うと明治レボリューションなんですね。明治革命と外国ではみんな言います。そこから日本の近代化が始まったとすると、それは大変に保守主義と相容れない。国家を、ドイツをモデルにして、どんどんそういうふうに持っていかないと、日本は国家として成り立たない。それはある意味では世界史的に見れば正しかったわけですけれども、他方、そこで保守主義ということを言うと、王政復古ではありませんが、へたをすると江戸時代に戻ろうとしている、それじゃ明治維新って一体何なのかということになって、保守主義的発想、保守主義ということが、たぶん明治以降、日本では正面切って語ることがあまりできなかった。
     もう一つは、法律体系からいろんなものを、日本はドイツをモデルにして、ドイツの成文法である憲法を輸入したりしましたから、どうしてもドイツ的になる。ところが、バークの哲学というのは、ドイツとロシアにはまったく入っていかなかったという歴史的な事実があるようで、したがって日本にもドイツを通じて入ってくることもなかったということもあるようです。
     いずれにしてもバーグの書いた有名な『フランス革命の省察(reflections on the revolution in france)』という本は、そんなにわかりづらくない本で、皆さん方、1回、時間があればお読みになるといい本なのかなと思います。私も1回、サッと読みましたが、まぁまぁわかりやすいことがいろいろ書いてありました。そんなことで、バークという人が世界の中での保守主義というものを体系的にまとめた人であると。

  7. では、保守主義、あるいは本当の自由主義というのは何の問題もないかというと、実はいろんな課題を克服しないと本当の意味の保守主義というのは実現できないということでありまして、もとのページに戻りますと、「自由主義の課題」と書いてありますが、保守主義というのは、自然発生的な秩序という意味での個人の自律というものを前提とするし、また市場を支える規範というものがあるわけです。道徳であるとか、歴史であるとか、伝統であるとか、あるいは家族の共同体。こういうものがなくて、ただ単に保守主義と言うと、単純に弱肉強食の悪しき自由主義になっていく。たぶん小泉改革を批判するか賛同するかという今の問題に置き換えて言うと、やはり小泉改革にはこうした規範とか、あるいは個人の自律という観念がいささか欠けていた、ある意味では弱肉強食的部分が表にどんどん出ていった、そういうことが小泉改革批判ということになるのかなと私は思います。
     私は小泉総理がやったことは概ね評価をしておりますし、がんじがらめな官僚統制とか、規則というのがありましたが、それがあまりにも行き過ぎていた面があるし、それをこの際、思い切って見直そうという部分があったことは、自由な個人の活動、民間の活動というものを活発化するという意味で、私は評価をしているのであります。ただし、それも何でもかんでも自由ならばよかったかというと、やはりそうではない。そこには一定の規範というものがなければならないし、そうしないと単なる弱肉強食に陥ってしまう。そこのバランス感覚というものを持たなかった……持っていたというか、思い切ってやらなければ物事は進まないから、正反合の世界で言えば、本当は自民党の中で正があり、それを少し見直すということがあって、いい姿になったのだろうけれども、その見直す部分がある意味では国民の目には見えなかったから、したがって小泉改革批判ということが非常に表へ出てしまっているのは不幸なことだと思っております。
     それから、家族であるとか、伝統であるとか、慣習であるとか、こういう規範がない孤立した人間は、どういう問題が起きるかというと、やはり心の病が多い。最近、本当に自殺が多いですよね。たまたま私が官房長官のときに、自殺対策会議の議長をやりまして、自殺対策といってもなかなかうまい方法はないんです。つい最近、私はある病院のアルコール依存症が専門の先生に話を聞いたんですが、その先生がある学会に出たら、小学生、中学生で、自分で自分の腕を切ったりする、自傷というんですか、そういう生徒が10人に1人だそうです。しかもどんどん増えていると言うんです。「100人に1人じゃないの?」と聞いたら、「10人に1人だ」と。これは恐ろしいことでありまして、なんでそこまで心が病むんだろうか。
     どこまで統計が取れているか知りませんが、かなりの確率で、親の愛情をほとんど受けなかった子どもたちがだいたいそういう行為に走る。あるいは親は愛情があったのかもしれないけれども、きちんとその愛情のメッセージが子どもに伝わっていない。なんで傷つけるかというと、心の痛みを肉体の痛みで消すというんです。消せるのかどうかわかりませんけれども、自傷行為はどんどん激しくなる。心の痛みを消すために、肉体の痛みに置き換える。だから自傷行為というのが起きる。それがどんどんいくと、最終的には自殺というものに至ってしまうという。
     家族とか親とか、コミュニティとか、そういうものが大切で、人間はしょせん一人で生きてはいけないものなんだという、当たり前のことが当たり前でなくなってきているので、人間の心が非常に病んでいる。不況だから自殺が増えているという見方も一定程度はあるとは思います。あるとは思いますが、それ以上に今の自殺の問題は、人間の心の問題そのもの、あるいは自傷ではなくてアルコールに依存してしまうことになっていく。
     そんなことで、「保守主義」というのは、まとめて書いてありますけれども、「小さな政府」と、政府の関与を一番少なくするという意味での「均衡財政」というものに行くはずであろうし、左翼的な自由主義、あるいは全体主義になれば「大きな政府」と「赤字財政」というものになっていく。私は今の民主党は、まさに保守主義ではなくて、左翼的自由主義あるいは全体主義的、社会主義的傾向を明らかに帯びている政府ではなかろうかと、このように思っております。

  8. 次のページに、保守主義の考え方から見た今の民主党の注意しなければならないいろいろな政策なり、運びというのが、どういうことがあるだろうかと。これは先生方がすでにいろいろな場面でご発言をされ、また考えておられることを、自分なりにパッパッとまとめてみました。
     「政治主導」、それだけ聞けばいいではないかと言うけれども、しかし、これもよく言われております、ナチ、ソ連共産党、中国共産党、北朝鮮労働党、これらは完全に政治主導です。なぜかというと、それらの党が、行政、司法、立法のすべての上に立ってやっている仕組み。小沢(一郎)さんのいろいろな発言内容を聞いていると、明らかに全体主義的、党がすべての上に立つ。
     だってそうでしょう。今、行政府はすべて党の言うことを聞けばいい。行政官は頭を使わずに、資料をつくり、データを整理していれば、それでよろしいのだ。頭脳は政務3役だけでいいと言うのは、一見なるほどなと思えるかもしれないけれども、それはまさにソ連邦時代の共産党がやっていたことと同じではないか、あるいは今の中国共産党がそれそのものではないかと思います。
     そして、この10月ぐらいから、民主党の政調の職員を各政府に、無給とは言え配置しました。何十人配置したかしりませんけれども。これは何をやっているかというと、まだ、そこまでやってないかもしれないけれども、いずれ、たぶんほぼ間違いなく、この局長は、この課長はどれだけ民主党に忠誠を誓っているかという、勤務評定係だと私は思うんです。民主党支配を行政府に貫徹させるための手段として、これらの党職員が各省に配置をされるという、具体的な表れではないのかなと思っております。
     あるいは今、各首長さんが、全国町村長会議で上京しておりますでしょう。彼らは各省に行っていろんな説明をしたいんだけれども、民主党を全部通せと言われて非常に困っています。しかし、これは国民の請願権の否定であり、憲法違反ではないかとさえ思うんです。このへんはよく詰めて考える必要があると思いますが、何でもかんでも党だというのは、まさに党が行政府の上に立つということの表れではないだろうかと思っています。

  9. 「社会主義的政策による日本の弱体化」というものが必ずやもたらされるであろうと思います。その具体例を挙げれば、地球温暖化対策。私は環境省の役人と話していると、この人たちは環境至上主義者の集まりかもしれないけれども、およそ日本の国がとか、日本の企業がどうあったらいいなどということは二の次の人たちです。とにかく環境さえよくなれば……環境省に働くんだから当たり前だと言えば当たり前かもしれないけれども、しかし、やっぱり日本の国家があっての、そして日本の企業があっての環境だと私は思いますから、環境至上主義というのは日本をものすごく悪くする恐れがある。
     いつか木挽(司)先生と話したら、先生は中小企業を経営しておられて、「今後、環境規制が強化されるから、もう海外に行くしかない」と言っておられた。こういう企業が今、どんどん増えているんです。これは何も大きな製鉄会社とか製紙会社ばかりではなくて、中小企業の皆さん方でも、環境規制も厳しいから、東南アジアへ移転しようという人たちが出始めております。これは実はものすごく雇用にも影響するし、地域の活力をそぎますし、地域の空洞化を招くという意味で、やっぱり一定のバランスというものを考えてもらわなければならないなと思います。
     「超福祉社会」、ばらまきをどんどんやる、赤字国債が出れば長期金利が上がって、結果として株価は下がるし、投資意欲も減退をするという意味での、日本経済の問題も起きてくるでしょうし、「日米」の関係もそうでしょう。
     実は「官僚バッシング」、確かに官僚もやりすぎたり、今でも天下って、大したことしないのに1000万円以上給料をもらっているというところもあるんです。しかし、本当に優れた官僚が、叩かれてやる気をなくして、結果誰が喜んでいるかというと、私がたまたまた中国人で個人的に親しい人、今の中国政府にかなり批判的な人がこう言っていました。「中国の役人はみんな、日本における官僚バッシングを喜んでますよ」と。「どうして?」と聞いたら、「やっぱり日本の官僚はいろいろ交渉すると手ごわい。しかし最近、彼らはだんだん手ごわくなくなってきた」と言うんです。やる気を感じない。適当なところで逃げる。「昔は、日本の官僚と交渉するとへとへとになる。ほとほと困ったけれども、最近はあまりやる気を感じないから、実は政府間交渉がやりやすいんですよ」と、中国の政府高官が言っているそうであります。
     日本の優れた企業も日本の宝ですし、また、一部かもしれないけれども、優れた官僚というのは日本の宝だという気持がないと、私は対外交渉等々を特にやる立場の人たちが非常にやる気がなくなっているのは、困ったなと思います。

  10. それから日本人からアイデンティティを剥奪させ、社会秩序を破壊させようと、意図的にやっている人たちもけっこういるんですよということを、先生方もお気づきだろうと思います。稲田(朋美)先生にはこの間、予算委員会で頑張っていただきましたけれども、「外国人の地方参政権」の問題、「選択的夫婦別姓」の問題、「子育て支援」というのも、よほど注意をしないといけない。彼らはけっこう言葉で、子どもは社会のものだ、社会の宝だ、国の宝だという言い方はまだいいと思うんですけれども、「子どもは社会のもの」だというのは、実は非常に危険な意味合いを含んでいるわけです。
     北朝鮮、あるいはナチの時代もそうですし、ソ連の時代もそうだったんですが、要するに子どもと親を生まれたらすぐ引き離す、そして国が一生懸命育てると、一見いいような話ですが、これは誠に恐ろしい話なんです。さっき親の愛情を感じないで育った子どもたちが自傷行為に走ると言いましたが、親の愛情をまったく感じずに……保母さんがやさしければそれでいいのかもしれないけれども、そういうものではないんだろう。保母さんは対価をもらって愛を注いでいる、親は無償の愛を注ぐ、そこには絶対的な違いがあると私は思いますから、こういう形で、子どもは社会のものである、社会全体のものであると言って、どんどん置き換える。
     保育というのも、私は女性が働きながら子育てをする、保育所は必要だということはわかるんですが、しかし、みんなどんどん保育に預けてしまったら、子どもが本当に健全に育つんだろうかという懸念をどっか心の中に持って、保育所政策というのを進めていかなければならないと思います。それでも親が、朝送り届け、夕方帰ってきて、その限られた時間でも愛情を注げば、それはそれでもちろん成り立つだろうし、保育所に行っている子どもが全部不健全に育っているなどと、そんなばかなことを言うつもりはありません。しかし、一定の危険性があるんだよということを私たちは意識して、保育所政策を考えないといけないのではないか。
     あるいは少子化だから、大量に移民を入れれば日本に活力が戻るという人がいますが、これなどは私は絶対反対であります。もちろん一切の外国人を入れないなどというほど排他的な人間では私はありません。例えばフィリピンの看護婦さんは、世界に冠たる優れた看護婦さんなんです。だから世界中で、ニューヨークでもどこでも、フィリピン人の看護婦さんといったら最も高いお給料で迎えられるほど国際的な評価が高いにもかかわらず、日本はフィリピン人、いや〜、などと言っている。
     最近、少し日本語ができるとか、資格を与えて、介護士さんや看護婦さんを限定的に入れております。しかし、基本は限定して、ある程度の日本人としての、あるいは日本語がわかるとか、一定の資質を持った人を入れるというのはいいんですが、どうぞどなたでもいらっしゃいと言った瞬間に、無制限に入ってくることを止められなくなる。そのうちに1億人の中国人が日本に移民してきたら、いったいどういうことになるか。日本の国というのは、中国の何番目かの州になってしまうかもしれない。勿論、これは極端な話ですよ。そんなことは起きないだろうとは思うけれども、しかし、どなたでもどうぞと、やっぱり言えない。本質的にそういう問題があるんだということだろうと思います。
     そして教育の現場で言えば、日教組がいろいろやろうとしていることは、いずれもほんとに要注意でありまして、このへんをよく保守の立場からチェックしなければいけないのではないかと思っております。
質疑応答
下村博文政策委員長
町村会長、ありがとうございました。前半、非常にアカデミックな話からスタートしまして、まだまだ時間がちょっと足らない感じでございますけれども、限られた時間ですから、皆さんからご意見、ご質問等、出していただきながら、進めていきたいと思います。ご質問、ご意見がありましたらどうぞ。
義家弘介委員
 町村会長、本当にありがとうございました。この保守主義に関してですが、経済的保守の側面、国防保守の側面、伝統文化的保守の側面、この三つをしっかりと今、もう一度再定義をし直して旗を立てなければならない分岐点にあるのかなと私自身は感じています。と申しますのは、例えば党内でもたくさんある伝統文化的保守主義、ここになっていくと、ともすると「三丁目の夕日」というか、古き良き日本、これは確かに精神としては大切なんです。しかし一方で、小さな政府の中で国際競争力に勝ち残っていかないと、国自身が国際社会の中から取り残されていくというところで、新しい国際競争力に勝ち残る日本で、しかし伝統、文化はしっかりと保守しなければいけない。ここの整合性を今、どう党内で議論していくのかということが非常に重要だと思います。
 その感覚でいくと、伝統、文化、保守という考え方のスタートというか、定義をどこに持ってくるかなんですね。ある人は明治維新にそれを持ってくるという人がいる。ある人は江戸時代にそれを持ってくるという人がいる。ある人はもっともっと古い、701年の律令制国家ができてからの日本人のあり方、あるいは武士道が伝統、文化の保守など、意見がいろいろ分かれるわけです。
 私自身は、武士道というのは日本の心の成熟した一つの大きな形だろうなと。それを考えたら、本会議場で総理大臣が「あなたたちには言われたくない」などという愚かな言葉は出てこなかったはずですが、そこに帰着するだろうなと。
 ということを考えたときに、私はまだ政治家でも全然なかったころ、大変だなと思ったのが、森喜朗総理が当時、日本は天皇を中心にした神の国だという「神の国」発言をしたとき、日本中大騒ぎしたわけです。しかし、日本は天皇を中心とした神の国なんですよ。天皇制を2000年以上守り続けて、八百万の神、すべてのものものに神が宿っている、自然にも宿っている、そういう伝統的な価値観を踏襲しながら来たにもかかわらず、あれだけの大騒ぎになったということは、歴史、伝統、保守の精神的なものというのが戦後60年、完璧に壊れたんだなというのは、私自身、すごく感じたんですね。
 町村会長は歴史、伝統、保守、これのスタートラインをいったいどのへんに定義して、そして国際社会に勝ち残っていく新しい国の形というのを考えていらっしゃるか、ぜひお聞かせ願いたいと思います。
町村会長
 私なりの考えを言えば、明治からということはないと思いますね。はるかに明治以前から、日本人には日本人の生き方なり、心なりがある。じゃ、それが江戸時代と限定するのか、あるいは律令の時代まで戻るのか、そこはいろいろあるんだろうと思っております。少なくともさっき言ったように、明治というのは近代化の歴史、近代国家として列強と伍してやっていくためにはどうしたらいいかということで、やっていったわけですね。
 ただ、明治からでもいいことはたくさんあるんです。明治の初期に、当時の若者たちが読んだ、ものすごく爆発的に読まれた本があるんです。それはスマイルズという人が本を書きまして、「自助」ということを大変強調した本があるんです。下から数行に書いてありますけれども、「天は自ら助くるものを助く」(西国立志編、スマイルズ)。これが明治の若者たちにものすごくウケたそうであります。
 それはやっぱり列強に伍して自分たちは頑張らなきゃいけないという、明治の精神とちょうど合ったのかもしれませんが、そのときから政府にあまり頼ってはダメで、自分たちで頑張ろうという意識と、さはさりながら、政府が相当引っ張らないと、官営八幡製鉄所ではありませんが、強い産業ができないという部分と、両方あったんだろうと思います。でも、意識としては、自ら助くるものを助くという自助の精神というものを、相当大切に思っていたというあたりは、明治からでも大変いい部分もあったんだろうと思います。
 ですから、どこからということを切るのは難しい。それもまた、江戸時代から、あるいはそのもっと前から、連綿たるものがつながっているものもありますから、ここからということを切るのは率直に言ってなかなか難しいけれども、明治以前の日本はまったく関係ないなどということは、私はおかしいとは思いますね。
高市早苗政策委員長代理
 いま義家先生のお話の中にあって、大変興味深くお二人の話を伺ったんですが、私は、義家先生がおっしゃったのは歴史、伝統、保守という言葉だったと思いますが、それと日本のこれからの競争力というのは両立する、むしろ歴史的な伝統的な保守の心を取り戻したら、日本は強くなるというふうに感じているんです。
 「武士は食わねど高楊枝」、「ぼろは着てても心は錦」、今、どうしても民主党を中心とする方々の発想の中に、貧しいから犯罪に走っていいんだと、それを許容するような報道があったり、マスコミで、ほんとにジェラシーを煽る報道があって、公務員を叩けばみんながスッとするんだ。それが国家公務員の士気を下げてしまっていたり、さまざまなところで……例えば出る杭を伸ばすような教育を行わなければ、日本のイノベーションというのは生まれないと私は思うんですけれども、それも何か横並びにしたほうが、みんながジェラシーを感じなくてすむ、そんなことが日本の競争力をどんどん落としてきたんだろうと思います。
 むしろ勤勉に働いて、多少心の中で人のことをうらやましいと思っても、それを表に出さないのが日本人の美徳でもあったし、何か迷惑をかけたらお天道さまの下を歩けない、そういう心持ちをみんなが持っていたら、安全な国、安全な国というのは、やはり観光客も来る、投資も集まる、これまた競争力のある国になっていくと思いますので、そういった切り口からも、また、伝統、保守ということを勉強していきたいなと今、感じました。とても面白いやり取りだったと思います。
義家委員
 私、実は結論というか、一言で申し上げると、伝統、文化、保守というのはさまざまな価値観がありますから、皇統保守しかないと思っているんです。男系天皇制。2000年以上続いて、世界で最も古いものを、しっかりと核として残して、それを国家の中心に据えながら、あらゆる政策、その国を守っていくために国防であったり、あるいはその国を守っていくために小さな政府の中で、どう国際競争に勝っていくか。その国民全員が共有できる根っこの保守的考え方。武士は食わねど高楊枝、確かに私はまったくそのとおりだと思いますけれども、そう思わない国民が大量にいるわけですね。これは教育の結果でもあるわけです。
 だから、教育は政治的に中立である、これは前提ですが、日本の長い歴史は教育に介入すべきであると思うんです。戦後の歴史だけが日本の歴史ではないですから。日本の長い歴史が教育にしっかりと介入して、その動きの中で新しい歴史教科書等ができあがってきたわけですけど、私自身は、今、分岐点。皇室も悠仁さま以降、これからいったいどうなっていくのかという、非常に分岐点にある中で、このへんの議論をぜひしていただきたい。これが日本の礎にあった上で、国家というのは成立しなければ、これからばらばらになっていくのではないかという危惧を持っています。
下村博文政策委員長
皇室典範の改正ですね。
柴山昌彦委員
 端的に町村会長にお伺いしたいのは、これからの自民党としては、私は米国、英国の共和党あるいは保守党の色をもっと鮮明に出すべきだというように思うのですが、いかがでしょうかという点です。
 要は、競争ということを正面から肯定するかどうかだと思っています。競争ということを肯定して、フェアな競争に耐えるための自立した個人、自立した国というものをつくっていくことが私は保守だと思っています。アメリカやイギリスのようなアングロサクソン系は、銃で家族を守るということが伝統だったわけですから、これは比較的受け入れやすかったと思いますけれども、農耕民族だった日本はそこのところがなかなか鮮明に打ち出せていなかったと思います。ですので、これから、どの時点を保守の理想系とするかはいろいろと議論が出てくると思うんですが、もっと保守党とか共和党のような競争を肯定する社会ということを、自民党は保守の旗印として掲げるべきだと私は思うんですが、いかがでしょうか。
 今、郵政を逆戻しする法案に、自民党の中でも賛成しようという方がたくさんおられるかと思いますが、これは競争を否定する方向性として、もしそういうことが起きるのであれば、私はそういう方々とは袂を分かつべきだと。大量国債引き受け機関たる道を開くべきではないと思っていますので、ここは私はけっこうこだわっておりますので、ぜひ会長のご意見をお伺いしたいと思います。
稲田朋美委員
 質問というより意見なんですが、私が考えている保守というのは、国家とむき出しの個人の間にある、家族とか、地域コミュニティとか、ふるさととか、そういったものに価値を置くことだと思っているんです。もちろん伝統は大事なんですが、伝統をとにかくガチガチ守るということではなくて、伝統と創造ということを私は言っていますけれども、もう少し柔軟なことを考えています。何となく保守と言うと、ガチガチの、昔から守っている、ここから一歩も出ちゃいけないみたいな、そういう誤解をされることが、自分自身もそうなんですけど、非常に心外です。
 例えば夫婦別姓でも、同姓だったら夫婦は仲が良くて、別姓になると一体感が崩れるという、そういう形式論には私は属してなくて、同姓でも仲のいい夫婦もいれば、事実婚でも仲のいい男女もいるし、離婚したってあったかい家庭もあれば、法律的には家族であっても冷たい家族もあると思います。
 そうではなくて、いろんな選択肢はあるけれども、そういうものを側面的に、原則としての家族がどういうものであるかということを、法制度の中ではきちんと示していくことが私は保守だと思っていて、あまりガチガチのイメージに保守を取られると、何となく違うし、また保守というのは理屈ではなくて、日本人がずっと培ってきたものを大切に思う、そういう謙虚な気持ちだと思っております。そういったところもぜひ打ち出していただきたいかなと。
 そして小泉構造改革、私も間違っているとは思っていませんけれども、ただ、国柄というか、日本の国らしさということを打ち出していく。そして目指すものがアメリカ型の市場原理主義ではなくて、すべての政策が日本の家族だったり地域だったりを守る、そういった観点から見直すというか、総括していくことも必要ではないかと思っております。
松野博一委員
 日本人にどの程度まで自立を望むのかということなんですが、面白いデータを見たのでご紹介しますと、日本人が困ったときに誰に相談しますかというアンケートで、1位と2位は、家族、次は友達なんですが、3番目ぐらいに役所というのが出てきまして、諸外国と比べて、困ったときに役所に相談するという答えは、まず日本しか出てこないと思うんですね。一方で、公権力に対して非常に批判、不満が多いのも日本で、政治とか行政に対する依存、尊敬と軽蔑という、非常にアンビバレントな感情がある日本の今の土壌の中で、どの程度まで日本人が自立ができるのか、またどの程度まで政策的に自立を望んでいくのかという点について、会長のご見識をいただければと。
下村博文政策委員長
最後に私のほうから、いまの質問にもちょっと似ているんですが、やっぱり政権奪還をしなければならないと思っていますので、ただ純化した、自己満足的な保守主義ではこれから自民党は多くの国民の理解は得られないと思います。行政的に小さな政府を目指すのは当然ですが、福祉において、どの程度の福祉をするかということについてはコンセンサスを得ておく必要があって、これは自助努力だから小さな福祉ということは国民の理解は得られない。
 その中で、町村会長がお話の中でおっしゃっていましたが、例えば保育も、できるだけ待機児童をなくすとか、何とかお母さんのためにしてあげたいという思いは私も持っていますし、おそらく保守主義者の人たちはみんな持っていると思うんです。ところが、それをしすぎることによって、ほんとにいいのかなぁと。かえって、先程の子どもたちの自傷行為もありましたが、親子の絆とか愛情を逆になくしてしまうことをしているのではないかという、ある意味で半分、罪悪感を持ちながらやっている部分もあるわけです。
 そのへんの、民主党の社会主義的な福祉政策と違う部分を国民にきちんと示さないと、ただケチっているみたいに思われても困るし、その代案は別の次元でつくらないと、自民党が政権を奪還する福祉に対する大義名分……たまたま保育だけで申し上げましたが、ほかの部分でも同じことが言えるのではないかと思うんです。
町村会長
 稲田先生が言った、中間的な組織、さっき先生が来られる前にご紹介したのですが、このエドマンド・バークの資料の2ページ目の上に、「中間組織(intermediate social-group)」と言葉が載ってます。それは家族であったりムラであったりコミュニティだったり、こういうのが大事だということは、バーク博士も言っているということだけ、ちょっと申し述べておきます。
 それから、フェアな競争を肯定する、これは私はまったく柴山先生の言うとおりだと思います。学校から競争を追放するというのが日教組の政策なんですよね。だけど、どう見たって世の中は競争社会でしょう。ところが学校だけは、せめて学校にいる間だけは競争をなくしようと言って、徒競走をやめて、手をつないでゴールインするという、極端な結果悪平等というのが、学校分野にもたくさんあるんですが、ちゃんとした競争、一定のルールに基づいた競争は絶対必要だと、そこは私はまったくそのとおり。そのことは別に、保守主義と何ら矛盾するものでもないと考えております。
 これはたしか江藤淳さんの著作に載っておりましたが、「保守というのは感覚」だと言うんです。さっき先生が保守というのは理屈ではないとおっしゃった、そういう部分が相当ある。だから逆に言うと定義しづらいというところはあるんだろうと思いますが、江藤淳さんの本を読むとそこのところが書いてあります。まさに保守というのは感覚であるという、面白い表現だなと思ったもので、記憶に甦ったところであります。
 松野先生が言われた、困ったときどこに頼るか。しかし、こんなにも政府に頼るようになったのは明らかに戦後の現象だと思います。こんなにも、何かあれば政府に頼る。私の役人をやっていた感覚で言うと、何かあると、政府は何やってると叩かれる。いや〜、困ったなと言いつつ、実はチャンスとばかりに法律をつくり、予算を取り、そして役所の仕事を増やすんです。だから問題があると、実はよくぞその問題を指摘してくださったと言ってパクッと食べるんですよ。これがだいたい役所の発想です。
 だから、何でもかんでも政府に頼るということは、困ったときのお上頼みというのは、やはり基本的にやめたほうがいいと私は思います。そういう風土が今、どんどんなくなっていますよね。むしろ何かあったらすぐ政府とか、役場に頼むとか、役人に頼む。私の保守の考えからすると、それは誤った方向だと思います。
 下村委員長の言われたのが一番現実的に難しいところです。ぼくは小さな政府といっても、現実にほんとにどこまで小さく保てるかといっても、ナショナルミニマムという言葉もありますから、現実にほんとに小さな政府で居続けることは難しい。ただ、小さな政府を志向しておかないと、どこまで大きくしてもいいんですよと言うと、瞬く間に大きな政府になってしまいますから、ややスローガンであっても小さな政府を志向すると。しかし、結果は谷垣総裁の言うとおりに中福祉中負担かもしれない。それは結果論であって、そのときの考え方はやはり小さな政府を志向するんだというふうに持っていって、立論しておかないと、たぶん答えは大きな政府にいってしまうというところと、あとはいま言われた難しい説明をどうやるかというところです。そこは政策論の中でだんだん解決をしていったらいいのではないかと思います。
下村博文政策委員長
次回は、さらに極端な保守といいますか、長勢先生のお話ですと「民族的保守主義」と言っていましたが、あまりこれを話すと自民党と全然関係ない次元になってしまうということでしたが、そういうことをきちっと……究極の保守は何なのかということをよく勉強する。それはこの世的に通用するかどうかは別の話だと長勢先生もおっしゃっていましたから、究極的な保守とは何なのかということを次回長勢先生からお話をお伺いしたいと思います。


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