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政策委員会 第4回


講演 個人至上主義と経済至上主義について
講師 長勢甚遠 清和政策研究会副会長

平成21年11月26日
下村博文政策委員長
 今回で4回目の政策委員会になりますが、きょうは、長勢甚遠副会長から「個人至上主義と経済至上主義(社会崩壊の危機)」というテーマでお話をしていただくことになっております。それでは早速ですけれども、長勢先生、よろしくお願いいたします。

長勢甚遠副会長
 皆さんのご期待に応えられるようなお話ができるかどうか自信がありませんが、皆様のお手元に配布しておりますレジメに基づいて、お話をさせていただきます。

 今、わが党が保守党としての原点に戻ってがんばろうということでありますけれども、それでは「保守」とは何かということですが、世界的に、普遍的な「保守」という概念があるわけもなさそうですし、私が知らないのかもしれませんが、「保守」とは何かいうテーマが基本だろうと思いますので、何よりもわれわれとして何を一番考えなきゃならんかということについての、私の独断と偏見の考え方をまとめてみました。

 「個人至上主義」とか「経済至上主義」という言葉自体も世の中にはないわけでありますが、単なる経済主義とか経済優先とか個人優先という以上に、今たいへん危険な状況になっている。これは政治とか経済が大変だという以上に、日本の社会が崩壊の危機に瀕しているという思いがありますので、われわれが何よりも対決をしなきゃならん相手は誰かということを、まず考えなきゃならんと。
 そうすると、いま世間に蔓延をしている「個人至上主義」「経済至上主義」、わかりやすい言葉で言うと、自分さえよければいい、儲けさえすればいいという考え方と対決をしていくことが、いま一番大事なことではないかと私は思っております。
 「個人至上主義」と「経済至上主義」と書いてありますが、こういう考え方、方向というのは、正直言って私の見るところ、戦争に敗けたあと一貫して、この方向が進められてきたと思います。そしてまた、高度成長が終わったあとは加速度的にこういうことが蔓延してきている。これを排除しなきゃいかん。排除して、日本の文化──日本の文化は、私は「集団主義社会」であると思っております。そして、この日本の集団主義社会の考え方・あり方というのは、江戸時代に熟成をされておったというふうに考えておりますが、これを取り戻すことが何よりも重要だと思っております。
 個人主義社会を見直して日本らしい集団主義社会、すなわち家族や地域──地域というのは市町村単位ではなくて、町内会単位ですけども──という生活共同体を再生して、人情ある、支え合う社会を取り戻すということが、いま一番大事な課題ではないかと思っております。
 私は法務大臣時代、人権団体などが面会に来たときに、「人情なくして人権なし」ということを言ったことがあります。「人権」という言葉は、もちろん正確ではないかもしれませんが、一般的に使われている人権というのは、相手に対して自分を大事にしろという主張であります。したがって、お互いに自分を大事にしろと言い合うということになるわけで、争いが絶えないことになる。
 しかし日本の国というのはそういう人権という考え方ではなくて、人情だと。人情というのはどういうことかというと、相手を大事にするという考え方であり、こちらが相手を大事にすることは、相手がこちらを大事にすることで。相互に大事にし合うというのが、日本のやさしい文化です。
 だから、私は「人権」という言葉が一番嫌いであります。家族を基本にして人情のある社会を目指すとなると、この家族を基本とした社会の象徴が天皇制でありますから、この天皇制はなんとしてでも護持をしていかなければならないと思っております。

 先程言いましたように、こういう日本の集団主義文化というのは江戸時代に熟成されたと思います。江戸時代はご案内のとおり、鎖国の時代にみんなで支え合い仲良く暮らすという知恵が、そこで凝縮をされて出来上がったものだろうと思っております。
 なぜ日本が素晴らしいのかというと、一例ですけれども、世界中どこでも飢饉があったわけですが、飢饉の際の餓死率は、日本が世界の中で圧倒的に少ないんですね。こういうことが日本の文化のもたらしたものであって、これを取り戻すことが必要な時代だと思っています。
 今までどういうふうに進んできたんだろうということを考えてみますと、この日本文化を明治維新で一度打ち壊すふりをしたと思っています。明治維新のときは、明治政府は外圧の中で日本を守るためには、外国の真似をして見せなければならない、また真似をしていかなければならないという中で、日本の文化というものを打ち壊す振りをしてきた。ふりをしたということですからそれのおかげで、日本の文化は国民の間に引き続き根強く温存されて、それで日露戦争にも勝つことができたと思っております。
 明治維新はそういうふうに外国の文化に打ち負かされた振りをしたことでしたけれども、昭和20年の敗戦は振りではなくて、本当に積極的に外国が正しい、日本は間違っているという日本文化の否定をもたらした。それが現在に至る一貫した流れの原点ということになります。
 日本文化の否定を進めたのは、一つは占領軍。占領軍は、家族を基盤とする日本の文化、日本主義というものに大変なおそれをなして、それを解体し、個人主義のほうに、つまり家族をバラバラにするということに力を注いだことによるのだろうと思います。
 家族や地域というものを基盤にしたいろんな風習、あるいは考え方というもの、いわゆる集団主義文化はみんな、すべて封建的だということで否定することをわれわれが小学生時代も、学校の先生からいろいろ言われました。親と子どもは友達だとか、先生と生徒も友達だということを言われたことを憶えている方もおられると思います。
 占領軍がそうすると同時に、それに呼応して自虐史観に基づいた左翼勢力がそれを触れ回る。日教組勢力、全学連、マスコミの宣伝・煽動等によって、日本文化というのは、従来われわれが持っておった文化というのは封建的で、個人主義が正しいんだという思想がだんだんと浸透していくという経過をたどってきたと思います。

 また、あらゆる政治が経済優先で進んでいるんですね。戦争に敗けたときは、とにかく食わなきゃなりませんから、ひたすら復興のために経済優先の政策をとってきたことはやむを得なかったと思いますけれども、飯が食えるようになったあとも、加速度的にそれを進めてきておるわけです。
 私の少年時代ですけれども、「所得倍増論」というのがありました。これはみんな、大変歓迎をしたわけでありますけれども、私は子どものときでしたが、非常にけしからん思想だと思って聞いておりました。
 政治の役割は、みんなが仲良く暮らせる社会をつくるということであって、政治が先頭に立ってみんなを儲けさせてやるとか豊かにさせてやるというのは、どうもおかしいと。経済の発展を至上命題とした政治というのは社会をおかしくする。政治・経済をどうするかも大事ですが、社会をおかしくしてしまうのは間違っているのではないかと考えております。
 しかし、その経済優先の考え方がそのあとも引き続き拡大して引き継がれてきて、ついには昨今では市場原理主義にまで至るようになった。ついにここまできたのかという思いがしておりまして、こういうことは早急に直していかなきゃならんと私は思っております。

 一方、われわれは高度成長期を過ごしてきたわけですが、高度成長というのはなんだったんだということについて、私の思いは、戦争に敗けて経済優先・個人優先という話が始まり、それを基盤にできあがったのが高度成長であると考えています。
 高度成長が始まって、労働力を使うために、地方・農村部の次・三男のようなそれまで家族社会、地域社会の中におった方々が単独で都市に引きずり出されてきた。そして企業側としては、経済成長を進めるために単独になった次・三男対策を何かしなきゃならんということになる。一方で、こういうひとりぼっちになった労働者というのは、いわゆる人権派の標的になったわけです。この両者のたまたま全く正反対の立場の二つの方向があわさってやったことは何かといえば、社会保障を急激に拡大をするということであったわけです。
 したがって、私からすると、高度成長というのは人権派と経済派が協調と妥協によって達成したものというふうに思います。同床異夢の中で、社会保障制度というのは際限なく拡大されたのが高度成長期でありました。だからこそ、わが国は「社会主義国以上に社会主義の国」ということをよく言われることがありますが、それは戦争に敗けたあと生まれてきたこの二つの流れがあわさって出来たのが高度成長だったからだと。したがって、私は高度成長というものをそんなに評価はしておりません。あの時代にひどいことになったなというのが、率直な思いでございます。
 同時に、ここで思わなきゃいかんことは、高度成長をなしとげた原動力は何だったのかということです。いろんな要素もありますけれども、何よりも国民が戦争に敗けた10年、20年の間、尚、江戸時代に培われた日本の文化というもの、例えば勤勉であるとか、正直であるとか、礼儀正しいとか、忍耐力があるとか、謙虚であるという日本の伝統・美徳というものをなお忘れないで持っておった。個人主義や経済主義ではないそういう方々がこの高度成長を成し遂げる基盤であったということは、明記をしておかなければならないと思います。
 しかし、この高度成長を進める、達成をする過程において、経済優先、個人優先ということがどんどん浸透していきましたので、いま言ったような日本の美徳というものは排除されていくようになった。そして集団主義文化というものもなくなってしまって、ギスギスした、自分さえよければいいとか、儲ければいいという社会になったのが高度成長後の時代。そして高度成長を達成したあとも、尚さらなる経済拡大と生活の充実が目指されて、それがますます加速しているのが現状であると。
 こういう流れの中では、企業の利益だとか個人の生活重視というもののみが目指されるようになって、となると全体としての社会、人間と人間とのつながりというものは崩壊をしてしまうということになっているのではないかという危機感を、私は強く持っております。
 政治の目的というのは何かと。いろんなお考えがあると思いますが、日本国民が仲良く暮らすということでありますので、仲良く暮らすことよりも個人の生活の豊かさが求められるとか、あるいは個々の個人の人権が大事ということになっているとすれば、家族や社会のあり方はほとんど顧みられることがない。このことに大変危機感を持っております。
 現実にも、「人の命は地球よりも重い」という比喩的な表現を金科玉条にして、それを具体化しようという運動が幾つも散見されます。こういうことをやっておって、われわれの社会は本当に守られていくんだろうかということを感じているわけでございます。
 いま現在、経済が大変だということが大きな話題になっておりますけれども、そのこと以上に社会が混乱をしていることが最大の問題だと私は思っております。清貧とまでいかないまでしにしても、豊かさを失ってでも、一人一人に不安があるとしても、我慢をし合って、全体として調和のとれた、仲良く支え合って暮らしていける社会を取り戻したいものだと思っております。

 ちょっと話題を変えるような気もしますが、私の感じは、いま日本のわが国の政治は4つの流れに分類されるんじゃないかと感じております。
 一つは、いわゆる人権派といいますか、左翼勢力のグループ。一つは、改革派といわれますが、いわゆる市場原理主義勢力。一つは、日本の伝統・歴史を大事にする、いわゆる民族派というか、保守勢力ともいわれることもありますけれども、こういうグループ。4つ目は、こういうこととは全く関係なく、なんでも権力さえ握ればいいという小沢(一郎)さんのような勢力。
 こういう4つのグループに分けられているのではないか。このどの勢力がこれからの日本を担うべき勢力になるかということが、今その岐路に立っているというふうに私は思っております。
 ちなみに小泉内閣では、いわゆる市場原理主義が横行したわけですし、政権交代によって新政権には元全学連幹部などがたくさん入っているわけですね。今度の重要なポストには、市場原理主義勢力もいますが、むしろ人権派勢力が幅をきかせているのが現状だと思います。
 日本の文化を取り戻す、再生をするということを考えたときに、これをもっと突き詰めていくと、結局は、西洋文化と日本文化との対決の図式になることを理解したうえで、現実のことを考えていかなければならないと思っております。
 西洋文化というのは、日本の文化とはまるで違うのではないかというふうに私は考えております。個人主義は西洋であり、わが国は個人主義ではない、集団主義文化である。
 この西洋文化との対決というのは、明治維新以来の長い戦いを続けてきたのだと思っておりますし、戦争に敗けてから、あっちのほうが正しいんだという流れの中で抵抗してきたわけですけれども、おそらく戦争に敗けた直後は、誰もあっちが正しいと思った人はいなかったと思いますが、日教組・マスコミの影響によって、戦後生まれの方々はほとんど日本が間違っているんだと自然に考えるという事態になっていますから、いよいよ決着のときが迫っているというふうにすら思います。
 私の西洋文化についての浅い理解は、日本文化とまるで違うなと思っているんですけれども、西洋文化というのは、ギリシャ・ローマ以来、基本は3つではないかと。
 一つは科学。一つは論理。一つは成長であります。これは科学というものを進歩させればなんでもできるという科学万能、神をおそれない不自然な傲慢な思想だと思います。こういう考え方は、日本にはないんです。
 また論理学は、論理さえ通ればすべて正しいというのが契約でも司法でもそういう考え方があるようでありますけれども、もともと論理学というのは詭弁学でありまして、そういう理屈が通ればいいという発想は日本にはなかったはずだと思っております。
 こういうことをもとにして、成長、成長ということがずっとわが国でははやりでありますけれども、成長が際限なく続くということは、どういう社会を考えているのか、どういう人間社会になるのかということを私は大変心配をしますし、まさに環境問題になっているように、自然の摂理に対する対決思想。日本はそれとは違って、自然をおそれ敬い、自然と共生していく、仲良く暮らす文化でありますから、それを取り返すことが必要なのだと私は思っております。
 私の恥ずかしい経験ですけれども、小中学校のころ『外国文学全集』というのを相当たくさん読みました。しかし、私はどの小説といえども、どの文学といえども、一つとして感動を覚えたものはありませんでした。友人の多くは感動したと言っていましたから何でだろうと悩みました。これが現在の私のトラウマになっているのかもしれません。
 したがって、私は……こういうのはメモにしてほしくないですけど、地球上にいる人間というのは日本人だけであって、あとはみんな人類だと思っておるわけでございます。そういう自分が学校へ行って、まるで違うことを、日本の国というのは封建的でろくでもない国だと言われたことに、ずっと強い違和感を持ってまいりました。
 江戸時代のことを先程言いましたけれども、私は江戸時代ほど平等な社会はなかったのではないかと理解をしております。権力を持つ、名誉を持つ、いわゆる武士階級には金は持たせない。商人には金は持たせるけれども、権力も名誉も与えないという大変平等な感覚ですし、武士道ではご恩と奉公といいますけれども、ご恩と奉公というのは、ヨーロッパ風の支配従属の関係ではなくて、お互いに役割を分担し合う対等な関係だったと私は理解をしていまして、ああいう時代が日本の大変素晴らしいところであって、それを取り戻さなきゃならんと思っております。
 西洋がいい、西洋がいいといって、今の国会もイギリス国会を真似るんだそうですけれども、特に福祉についてはスウェーデンなどがもてはやされておりますが、スウェーデンは世界一の犯罪国家、アメリカよりもすごい犯罪国家でありますし、福祉が発達した結果、老人は家族から全部切り離されて、大変悲惨な状況になっているという話も聞いております。
 それぞれの国がどういう形であってもいいですし、それでおそらく整合性がその国としてはとれているんだろうと思いますけれども、その国の文化的な基盤のない日本にそれを取り入れていくことは大変おかしなことを起こす、そういうことは断じて許されないと思っております。

 話を少し元へ戻しますが、私は個人優先主義、経済優先主義というのを非常に危機感を持っておるのは、この二つはそれぞれ全く違った考え方ですけれども、いずれも個人をバラバラにしていくということを目的としているか、あるいは結果としてそうなる社会をもたらすということになるからであります。
 日本は、絶対に何をしてでもこれは逃れられない与件というものが私は二つあると思っています。一つは、日本が敗戦国であること。もう一つは、資源のない国であること。
 われわれはそれを忘れがちでありますけれども、この二つの与件の中で仲良く暮らすにはどうしたらいいかということを考えなければならない。そのためにも、個人がバラバラに分離させられる社会とならないように、「経済至上主義」「個人至上主義」というものから脱却をしていくということが、いま当面の最大の課題であると私は思っております。 
 少し具体的な話をしなきゃなりませんけれども、いま具体的に人権至上主義論者と思われる方々が主張している問題、例えば人権擁護法案ですとか、夫婦別姓だとか、ジェンダーフリーは、いずれも「個人至上主義」を主張して、家族を否定して、人をバラバラにするという思想を根底にしているわけであります。
 国会で私もいろんな法案に関与しましたが、大体「人権」という言葉を使われると、言葉自体はいかにもよさそうに見えますけれども、その根底は、一人一人をバラバラにしていくということが入っていますから、いったん法文化してしまうと、どれだけ拡大解釈されるかわからない。私はこの「人権」という言葉を法律になるべくさせないように全力を尽くしてきたつもりでありますし、これからも警戒をしていかなければならないと思っております。
 最後になりますが、この日本の「集団主義文化」というものを再生していくために、具体的に考えなきゃならんことはなんだろうということを常に思っております。
 まず1番目には、この問題の基本は、戦争に敗けたことによって憲法ができたところにある。特に憲法の「基本的人権」の条項があって、それを根拠にして、個人至上主義者の人たちは言いたい放題の主張をしておる。それを根拠にしているわけですから、私はこの条項を見直し、あるいは廃止、削除するのが一番正しいのじゃないかと個人的に思っております。これはわが党の憲法草案の考え方とも違うわけでありますので、あまり大きな声で外では言わないように努力していますが、基本的に私が憲法の中で一番嫌いな条文は、「基本的人権」の条項でございます。

 次に、個人がバラバラになって勝手放題を言うという社会になっていまして、その結果、なんでも公的な制度に依存していくという体質がみんなに浸透してきてしまっております。自分のできること、なんでも自分の都合の悪いことはみんな国にやらせる、地方にやらせるという体質を早く改めていかなければならないと思います。
 「個人の自立」ということがよく言われますが、人間一人一人が自立していくということは不自然なことでございます。むしろ個人の自立ではなくて、いうなれば家族の自立でなければならないと思っております。つまり、家族が助け合って、そこで自立ができるようにしていくということがまず基本で、その家族ができないものは地域あるいは親戚等々で助け合って支えていく。どうしてもできないものは公のものが出ていく。
これが自助・共助・公助という分類であるべきなんですけれども、どうも私とは違う考え方で、自助というのは個人が自分で自立することということになっており、それを助けるということになってきて、全く公的制度に依存するという話が次から次からへと出てくる。事業仕分けということを今やっているようですけれども、そういう観点から無駄な税金の使い方を見直すべきじゃないかと思っております。
 3番目には、日本の家族制度を崩壊させることに手助けをしている制度は、できる限り早く廃止をする、あるいは見直しをしていくべきだと思います。その一つは、公的年金制度であります。
 年金制度は別の意味でもっと充実ということで大変話題になっていますが、私自身は公的年金制度は廃止をするのが一番正しいと思っています。財政的な面で言うと、公的年金制度に使っている税金を医療などに回したほうが効率的な使い方になると思いますし、それ以上に何よりも公的年金制度がありますから、親は子のめんどうをみない、子は親のめんどうをみないという家族制度の崩壊の大きな基盤になっているのが公的年金制度であり、これを作り上げてきた厚労省の責任は重いと私は思っております。
 老後の保障を国が責任を持つという不自然な話でありますから、当然、家族は不必要なものになり、親子関係は崩壊させられる。介護保険にもそういうふしがあります。こういう家族の崩壊を促進していくような制度は、できる限り早く見直しをしたいものだと思っておりますが、選挙を考えると、とても言うわけにはいかないのが現実です。 それから最後になりますけれども、少子化対策というのは、私は完全に個人主義優先思想に毒された、間違った対策がとられてきたと思っております。それはわが党の責任であります。
 今までとってきた少子化対策というのは、子どもを産んで育てることは負担だと。負担だから、誰も負担なものは選択はしないと。したがって、負担を軽減することによって、産んだり育てたりすることを選択してもらおうというのが根底の思想であります。したがって、なるべく負担を少なくするために児童手当を払うとか、育児休業をどうするとか、保育所をどうするという話になっていくんですけれども、負担を軽くすることによって選択をしてもらおうということですから、きりのない話でありまして、絶対に成功はしないと私は思っています。
 こういう思想ではなくて、本来、子どもを産み育てるということは当たり前のことで、自然なことだということになっていかなければ、どういう制度も効果を持たない。産まないで育てないほうが得だという社会になっている。どうしても産めない、あるいは育てられないという方に対する制度として、今あるような制度があることは正しいと思いますけれども、今の考え方はまるでさかさまだと。私はずっと一貫して、このことには反対をしてきました。
 森(喜朗)会長の下で、「少子化問題調査会報告」というものをまとめました。また小泉内閣のときに猪口(邦子)少子化担当大臣と一緒に少子化対策をまとめまして、私の考え方をそこに盛り込みましたけれども、なんら変わるところがなく今日に至っております。
 それどころか、民主党は子ども手当を払うということを主張しているわけですけれども、財源の問題もありますが、もっと私が危機感を持っているのは、民主党の主張は、子どもというのは親にとって何かと。「子どもは親にとっては預かりものである。預かりものであるから、中学校を卒業するまで預かってもらうんで、その預かり料として子ども手当を払う」ということを言っているわけでございます。
 預かられた子どもは親に感謝はしませんし、親も子どもを大事にはしません。そこにきちんとした親子関係、家族関係ができなくなるということが、私はこの子ども手当の中の思想に入っていると思っております。
 われわれは、子どもというのは天下の授かりものだから大事にして育てる、大事にして育てられたから親孝行するというのが本来の当たり前の話なんですけれども、大変危険な個人優先主義の思想が、この基盤を持っている大変危険な制度だということを私は考えております。
 日本社会がおかしくなっているんじゃないかということは、随所で聞きます。そしてその度に言っていることは、教育がどうかならないのかということであります。
 教育は、正直言って日教組教育に洗脳された人たちが、現在それが正しいと思って先生になっているわけですから、制度を直したからといって教育がよくなるということは、私は残念ながら想定できません。せめて、もっと若いうちに、小さいうちから教育を直していけば、少なくとも大学4年間遊んで、23〜24まで遊びぐせだけをつける、覚えるという教育体系は直るんじゃないかと。
 そういうことから言うと、今度、選挙権が18歳に下がるそうですから、それにあわせて義務教育年齢も2歳下げれば、若いうちから働くようになる。そして大学を10分の1ぐらいにすれば、日本は相当きちんとした国になるんじゃないかなと思っております。
 まとまりのつかないお話をいたしましたが、私は政治や経済の混乱よりも以上に、日本社会というものが崩壊させられつつあるということに一番危機感を持っております。
 そのためになんとか日本の文化伝統、集団主義文化、社会を再生する、つくり直すということを、表向きの言い方はいろんなやり方があると思いますけれども、これに焦点を合わせて、なんとか崩壊を食い止める努力をしていくのがわれわれの務めであるべきではないかと思っております。このことを申し上げて、終わりとさせていただきます。


質疑応答
下村政策委員長
ありがとうございました。長勢先生から、本質的な重い問題提起をしていただいたと思います。先生方から、ご質問ご意見等あれば出していただきたいと思います。
礒崎陽輔委員
 大変素晴らしいお話をありがとうございました。ほとんど賛成のところばかりで、特に最後の子ども手当の話は、私が出席した1回目の政策委員会において、中山恭子先生から「これは社会主義的な政策である」という話がありましたし、きょうは長勢先生からもそういうお話があって、本当に私もそのように思います。親が子どもを育てる、子どもが老後の親のめんどうをみる当たり前のことが当たり前に行われていない日本の姿がおかしいわけでありまして、これは元に戻していかなきゃならんというのは、私もそのように考えております。
 質問を申し上げたいのは、村落共同体が日本にあったんですね。参議院の木村仁先生が自治省におるときにコミュニティ対策というのをやって、がんばってきておったんですけど、正直言って、なかなかうまくいかなかったわけです。ただ、昔の村落共同体は男女の役割分担というのがある程度あったのかもしれないと思うわけですね。「ジェンダー」という言葉も、たぶん長勢先生が大嫌いな言葉の一つだろうと思いますし、男女共同参画とあるんですが、そこの趣旨は私もわかりますけど、男女の平等ということは、今の社会の価値としてあると思うんですね。男女の平等があるというと、それで女性の社会進出が進んできたと。これは男女の平等という観点もあるし、もう一つは人口減少社会の中で女性も社会に出て働いてもらわないといけないという要請があると思います。少子化の問題とか、例えばさっきのコミュニティを考えるうえでも女性の社会進出。まず男女の平等があって、女性の社会進出があったとき、昔の村落共同体に戻れるかというと、そこが非常に難しいところがあるんじゃないかと思うんですね。
 だから新しい方向性を考えると、男女の平等というのは少なくとも否定するわけには絶対にいかないと思いますけど、それを考えたときに、昔のようにはならないにしても、新しいコミュニティができるのかできないのか。お父さんもお母さんもほとんど会社に勤めている時代の中、それから隣の人が誰かわからないようなマンション住まいをしている中で、コミュニティを取り戻すのは非常に難しいと思いますが、質問が抽象的で恐縮でございますが、そのへんの長勢先生のご意見を言っていただきたいと思います。
長勢副会長
 日本の国というのは、モデルは江戸時代ということになるんですけど、私は極めて男女平等の社会だったと思うんです。ただ、「男女共同参画法」というのは、自然な男女平等を超えた、個人主義的ないかがわしい思想が根底にあると私は思っています。
 それから当然、農業……産業と雇用労働になったら、家族のあり方等々がそれに合わせなきゃならないことが今やらなきゃいけないんで、核家族化にならないようにする方法は、どういうふうな知恵があるかというのは、これから考えなきゃならんことだろうと思いますけどね。
 しかし、平等というのは役割分担であって、役割分担を否定する……ジェンダーフリー論者は、役割分担を一番いやがりますよ。あれは一番間違っているんで、昔から、じいさんは山へ柴刈に、ばあさんは川へ洗濯にと。それがじいさんは川へ洗濯に、ばあさんは山へ柴刈に行ったっていいわけで、いずれにしても男と女しかいないんですから、その時代時代に応じて男女の役割分担をしなきゃ生きていけるわけがないんです。
そういうものと思っていますので、「男女共同参画基本法」は廃案、廃止をしたいというのが私の思いですけれども、男女平等というのは、そういう言葉があること自体がおかしいくらい普通の当たり前のことであって、それなくして人間社会は成り立たない、成り立つわけがないと思っています。
下村政策委員長
 きのう、地元で江戸時代の日本の文化伝統を鑑賞する会がありまして行きましてたら、その出演された方々が、実は江戸時代についての評価が非常に間違っているのではないかと。
本当は豊かで、あのときのような文化芸術を今の時代にしようと思っても、とても今の日本の経済力なり社会ではできないぐらいの優れたものがあった。しかし封建社会で虐げられて、農民も含めて貧しい生活をしていたというのが今の大方の歴史観だけれど、本当は違うということを言っていた方がおられました。
 今の長勢先先生のお話も、江戸時代に熟成された日本の文化社会というのがどういうことなのかというのが、たぶんわれわれも含めて、その価値観なり評価は相当ギャップがあるんじゃないかなと思うんですね。
 長勢先生の危機感、社会崩壊の危機をなんとかしようと。おそらく、それについては皆さん共有されていると思いますし、私もそう思っておりますが、ただ、長勢先生もおっしゃっていましたけど、じゃ、もう一度江戸的なものに戻ろうとか、あるいは公的年金制度を廃止するということは、国民にとっては夢がありませんし、あんな時代に戻ったら大変だよと。また年金制度を廃止されたら大変だよということで、これはプラスにはならないと思いますね。
 ですから今後、しかし、今の社会そのままは成り立っていかないよと。これからのあるべき社会を考えたら、もっと素晴らしい社会というのはこうなんだという未来志向的に、その中で昔の、例えば江戸時代に学ぶということは必要だと思うんですが、国民の皆さんにも夢を持ってもらうようなですね。我慢することは必要だけど、その結果、もっといい幸せが得られるという理論構築をしていかないと、なかなか理解をしていただけないのではないかと思いますが、そのへんの理論構築について、どのようにお考えなのかお話をしていただければと思います。
長勢副会長
 今おっしゃったことは、そのとおりだと思います。ただ、社会保障について言うと、年金・医療・介護とよく言いますけれども、高齢社会を脱した時代は、また何十年後かには別になるかもしれませんが、当面もたないのは明らかなわけですね。
 自分の生活は自分で守る、家族で守ると。どうしても駄目な人だけは生活保護に統一をする。そしてその分の財源は、だいたい年金という制度の保険事故は何かというと、65歳まで生き残ったかどうかだけが保険事故なわけですね。そうではなくて、本当の保険事故である医療とかなんとかに財源を回すことによって、もっと安心した生活ができるというふうに私は考えています。
 年金がもっと高くなれという要望がどこへ行っても出ますから、前向きではないんですけれども、しかしこれは割り切りですが。したがって選挙には向かないわけですけれども。そこらのところはどっかで覚悟を決めていかないと、夢の話だけをしているという時代なんだろうかなというのは、あまり参考にならなかったかもしれませんが、私はそういう思いで選挙をするたびに違ったことをしゃべっているなと思っているというのが現実ですね。
吉野正芳委員
 長勢先生の見識、素晴らしいご意見で感動しております。私も、「江戸に学べ」ということを常々言っている一人です。政治体制も、中央政府が一つ、地方政府が一つなんです。300諸侯、そして地方自治も藩できちんとやっていました。裁判権も、貨幣の発行も全部藩が独立国家という形で、江戸時代はまさに地方分権であります。
 また江戸は大火事があって親が死んで、みなし児がかなり多かった。このみなし児を、長屋の皆さんが大人になるまで育てたというのが江戸時代なんです。今「みなしごハッチ」を、部落でご近所さまが大人になるまで塾も通わせて育てるかというと、これはできない。そのくらい地域の絆というのが江戸時代にはあったんで、これはわれわれのご先祖さまは素晴らしいことをやってきたということで、長勢先生と同じ考えであります。
 そして個人主義から集団主義。これも、まさに江戸時代のことであります。ただ先生の話を聞いて、びっくりしたのが二つあります。「豊かさを失っても」というこの言葉。もう一つは「公的年金を廃止」。
 例えばブータンは素晴らしい民族衣装を着て、全国民すごく幸せを感じています。でもブータンの文化、しきたりに学んだ、のっとった生活をしているんですけど、あのブータンでは水力発電という経済的な基盤があるからできるんであって、経済的基盤を、豊さを失ってもというここのところはちょっとびっくりしました。
 また、世界のテロも貧困からなんです。貧困があるからテロが起きるのであって、貧困を解決すれば基本的にはテロも少なくなっていくという貧困対策を、先生はどう考えられているのかというのが一点であります。
 また江戸時代から、ここ400年ぐらいの短期の眼で見ていますけれども、日本民族はもっともっと古いところから私たちの遺伝子ができていますし、気候と文化というこの観点を先生はどう考えているか。
 四季折々の気候があったればこそ、このわび・さびの文化を持つ日本の文化ができたと私は思うんですけれど、気候と文化との関係を先生はどう考えているか。お尋ねしたいと思います。
長勢副会長
 最初、「豊かさを失っても」と言ったのは、もっと豊かに、もっと豊かにということをいまだに言い続けていることについての意味で言ったのであって、飯が食えなきゃ駄目に決まっているんで、その水準はどこにあるかというのは全体として評価されるべきですけれど、ただ豊かさを追求して、自分さえよければいいといって、社会がどうなってもいいということではよくないということを言いたかったわけでございます。
 それから困窮者対策というのは、先程言ったように家族が、まずみんなでめんどうをみ合うのが基本でなければならないと私は思っていますが、家族もめんどうみれない、地域もめんどうみれない、一生懸命やっても駄目という人は国がみるのが当たり前というか、責任だと思っていますから。救貧対策というとあまりほめられないらしいんですけども、年金も生活保護制度に統一しようというのが私の考え方ですから、それは当然やるべきことだと思っています。
 それから「江戸時代に熟成された」と書いておるはずですけど、熟成したというのは、日本の文化は四季折々の気候によって作られてきて、鎖国という異常事態の中でわれわれだけでつくった文化が江戸時代ですから、今に至るまでの過程を踏まえたうえで熟成したのが江戸時代。だから、たぶん、あなたと同じ考えだと思います。
松野博一委員
 長勢先生のお話をお聴きしまして、日本で一番豊かな共同体社会の北陸が生んだ教養人のお話という感じがしました。私のような、太平洋側の漁村出身の人間と若干、共同体に対する感覚が違うところもあるのかなと思いながら聴いていました。
集団主義社会であったというのは、逆に言うと個人主義社会たり得なかったということなんだろうと思います。
 その当時の産業形態であったり、社会保障の形態が、農村共同で飯を食っていくためにも地域共同体・集団の中でやらなければいけなかったし、社会保障制度も地域でやらざるを得なかったから、その秩序を乱すことによって与えられる報復があまりに大きすぎるので、集団主義でやらざるを得なかったところもあると思うんですね。
 社会保障制度の面に関しては、長勢先生のお話の中で年金の問題、介護保険の問題のご指摘もありましたけれども、少なくとも産業構造、飯を食っていくことに関しては、地域社会がその人間の飯を食っていくことに関して相当程度の影響を与えるということはあり得なくなってきているのだろうと思います。
 ですから、私も個人主義から、ある程度の地域主義、家族主義への回帰というのは必要なことだなと思いますが、昔からの集団主義じゃなくて、「新しい集団主義」というか、「新しい家族主義」というか、そのコンセプトをしっかりと規定をしていかなければいけないんだろうと思います。
 特に個人主義で何が悪いという話もあると思うので、個人主義が生み出す弊害というのは、こういう弊害があるんだということをきちっと議論をして、それを解決するために新しい集団主義、新しい地域主義、こういったシステムでやっていきましょうという議論の仕方が今後必要なのかなというふうに、話をお聴きをして、感想で申し訳ないですが、思いました。
下村政策委員長
 重ねて申し上げますと、今までの集団主義化というのは、日本が集団主義文化ですか、農耕民族で一緒に力を合わせて農業・農耕していかなければ生きていけなかったという積み重ねの部分が非常にあったと思うんですね。ただ、いま実際、農耕民族的なdnaは引き続きあるとは思いますが、経済体制はそういう状況ではないわけですから、松野先生がご指摘のような新たな集団主義とは何なのか、新たな家族主義とは何なのかという、時代に合った、あるいはこれからの時代に要請される新たなシステムがないと、昔に戻れと国民に聞こえるような形では、なかなか広がっていかないのではないかと思うんですね。
 具体的に、私は家族は核だと思うのですけど、今はおっしゃるとおり個人主義というか、家族をバラバラにしていくような政策が進められていますよね。ですから、もう一度家族が中心だと。家族を大切にしなくちゃいけないと。そのためにどういうインセンティブといいますか、家族が集まってきて、それが暮らすことがよりいいことなんだということが政策の中にも入っていかないと、今のような個人主義的な政策ではさらにバラバラにしていくだけだと思うんですが、そのへんの新たな家族主義政策なり集団主義政策について、具体的に提案していただければと思いますが。
長勢副会長
 時代が変わってきて、産業構造も変わってきて、しかも世界の中で鎖国時代ではないですから、江戸時代と同じことに戻ることはあり得ないし、してはならないことだと思うんですね。
しかし家族の絆、地域の絆の中でやってきたことは、例えば雇用について言うと、終身雇用制というのは一つのあり方だったと思うんですね。そういうことを踏まえたあり方であって、また例えば家族との関係でも、企業が利益追求のために、若い働く方々を夜の夜中まで働かせるということが続いているとすれば、企業は家族を守るためにやるべきことはたくさんあるんだろうと思いますし、それを提言する内容は具体化をもっともっとしていかなきゃならんと思います。
 網羅的に、今の下村委員長のご質問に答えることができないですみませんけれども、そういうことを考えていかなきゃならないということについては、私も全く同感であります。
高市早苗政策委員長代理
 民主党が訴えている政策は、非常にいびつな個人主義であると思います。夫婦別姓もそうですが、子ども手当財源としての配偶者控除・扶養控除の廃止など、多くの政策の考え方に個人主義が出てきます。ただ、個人主義を訴えるわりには、国への依存心を煽り、自立しない個人を生み出す政策が多いので、私たちはしっかりと対抗していかなきゃいけないんだろうと思っています。
 私が最近頭を痛めていることなんですが、夫婦別姓の民法改正案の中に、非嫡出子の法定相続分を嫡出子と同じにするという内容も含まれているようなんですね。
 これに関しては、浮気した夫は悪いかもしれないけれども、その結果生まれてきた子どもには罪はないじゃないかということから賛同する声も多く、私自身も判断に苦しんでいます。一方で、正妻は、一生懸命家を守り支え、また場合によっては働き、夫の資産形成に寄与しているわけですね。日本人の場合、ご主人の名義で夫婦一緒に蓄財をしているご家庭も多いわけです。それで夫が死んだら非嫡出子に自分の子どもと同じだけの財産相続権が発生するとなると、正妻の心情や権利というものを考えると、非常に難しい話だなと私は思っているんです。長勢先生のお考えがありましたら、お願いします。
長勢副会長
 夫婦別姓だけでないんですけれども、子どもがかわいそうだからといって、親がやりたい放題をする理屈づけになっている場合がたくさんありますよね。ですから、そういう部分が非常に気になるということを私は思っているわけです。
 夫婦別姓には私も反対ですけれど、ただ驚くのは、夫婦別姓をしてくれないと、ひとり娘は結婚できないという話になってくると、そういう人たちは個人主義者とは全く感覚の違う夫婦別姓論者ですよね。
しかし今の非嫡出子の問題は、認めないとまずい、気の毒な人が出てくる可能性はあると思います。しかし、これは社会の基本ですからね。基本は置いておいて、そのことを覚悟して非嫡出子を産むという覚悟を持ってもらうしかないんじゃないかと思います。
下村政策委員長
 夫婦別姓については来年の国会にも出てくると思います。あらためてこれだけできちっと議論していく必要があると思いますが、きょうはこれまでとさせていただきたいと思います。
 長勢先生、貴重なお話をありがとうございました。


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